「海に行こう」
「嫌だ」
真冬の真夜中に冗談じゃないと冷静に思考しながら手元の分厚い本からは視線も上げずにルルーシュは即答した。
「ひどい……」
にべもない返答にスザクが炬燵に突っ伏す。ふに、と炬燵の中で足を踏まれた。さっと踏まれた足を抜いて踏み返す。しばし無言で炬燵の下のたたかいを繰り広げる。その間もルルーシュの目はつらつらと小難しい哲学書の文字を追っている。冬季休暇明けに提出しなければならない8000字のレポートの参考文献だ。
ぱらり、と頁を捲る乾いた音が3回部屋に響いた時、スザクが音を上げた。
「ねえ、構って」
それにルルーシュは、ようやくちらりと視線だけをスザクに向ける。両手も炬燵に突っ込んだスザクは、ちょこんと顎を炬燵机に乗せて、上目遣いで甘えた貌をしている。ルルーシュは、すうっと鼻から空気をふんだんに吸い込んで、また鼻からふんだんに空気を吐き出す。
「夜中に突然やって来て、その上ひとの課題の邪魔をしようと? 随分よろしい態度だな」
「君が上がっていいって言ったんだよ?」
「それは俺は誰かさんと違って躾が行き届いているから、極寒の真夜中に友人を追い返したりはしないさ」
本に視線を戻しながらつらつらと述べると、ふっと真向かいのスザクが笑う気配がした。
「ルルーシュだいすき。でもそこは恋人って言って欲しかったな」
「言ってろ」
暖房機がぬるい風を吐き出す音がさして広くもない部屋を充たしている。今夜は特に寒さが厳しい。ルルーシュが、ぱらり、と頁をめくる。引用できそうな部分を記憶に留めながらレポートの構造をあれこれ思案していると、ほんの少しだけ静かだったスザクが、けりっと炬燵の下で足技を繰り出す。
「ねえ、海に行こうよ」
ルルーシュが、はあ、と盛大な溜め息を吐いて本に貸し出し期限の記された札を挟んだ。ぱたりと大学の図書館のよれよれの蔵書を足の上で閉じる。
「なにかあったのか」
深く座椅子に凭れ掛かってスザクを見詰めれば、翡翠がゆったりと細められる。
「別になにも。」
ふん、と鼻から息を吐き出してルルーシュが本を炬燵の上に置く。そしてぴっと暖房を切った。けりっと炬燵の下でスザクの足にひとつお見舞いして、ぐんと立ち上がる。
「行くぞ」
コートを取ろうとクローゼットを開けると、すり、と後ろからスザクに抱き締められる。そしてちゅ、と頬にくちづけられた。ルルーシュはまた溜め息を吐きながら、少しだけ体重を後ろに預ける。
「肉まんぐらい驕れよ」
「お安い御用です」
予報では曇りマークと雪マーク。できるかぎりの防寒対策をして二人自転車をこぎ出す。ぴゅるぴゅると痛みになって寒さが頬を切った。手袋をしていたって指先の感覚がなくなる。それでも30分もこげばじんわりと身体があたたまった。
スザクは、嬉しいことがあった時か、落ち込んでいる時、海に行きたがる。いつも言い出す時は淡々としていて、一見どちらなのかは判別がしにくい。断れば大人しく引き下がる時もある。
既に通いなれた道をふたり無言で走り、目的地に一番近いコンビニに寄って懐炉や軽食を調達した。
夜の海は黒々と闇として横たわっている。雲に覆われて星も見えないが、眠らない街の明りをほんのりと反射して僅かに天は明るかった。それでも沖に向かう闇は濃い。この寒さにこの天気ではさすがに人気もないが、潮騒と時折道路を過ぎっていく車の音が騒がしくふたりの鼓膜をふるわせた。
さくさくと頼りない砂を踏みしめながら、波打ち際ぎりぎりまで歩いていく。足元の空き缶や菓子の袋、花火の残骸などを無感動に眺めながら、適当な場所で腰を下ろす。
ざあん、ざあんとただ繰り返す波の音を聞きながら、海岸通の街燈の明りを頼りにふたりで湿った肉まんを頬張った。
「さすがに寒いね」
縮こまりながらスザクがそう言うので、軽く握った拳で小突いた。ごめんと力なく笑うものだから、仕方なく距離を縮めてぎゅっと寄り添う。
肉まんを食べきると、まだぬくいコーヒーの缶をご丁寧にプルトップを開けて差し出された。受け取ると凍える素手にぬくもりが伝わった。
「司法試験の勉強は」
ルルーシュが甘ったるい缶コーヒーを啜りながら問うと、うん、とこの上なく曖昧な返答が返って来る。それに少しだけ体重をスザクの方へ傾けると、やってるよ、と淡々と告げられる。
ルルーシュは無言で缶コーヒーを飲み下す。気休めばかりのぬくもりが胃へ下っていく。普段ルルーシュはコーヒーには何も加えないが、缶コーヒーのブラックを飲むとなんだか侘しい気持ちになるので、缶コーヒーはいっそ甘ったるいものを選んでいる。
スザクとは高校からの付き合いだ。これといって互いの趣味や性格に共通点も見出せなかったが、なぜか一緒にいると楽だった。今では互いの家の事情も知り尽くしている。
「ルルーシュ、今年も一緒にカウントダウンしようね」
「……言っておくが、今年はどこにも出かけないぞ」
去年はスザクがどうしてもと言うので有名なアミューズメントパークのイベントに参加してみたものの、あまりの寒さとひとの多さに、散々な目にあった。全く楽しくなかったかと問われればそれはまた別だけれども。
「うん、今年は、どこも行かない。ふたりで行く年来る年見よう」
ルルーシュはそれも嫌だと思いつつ、黙って聴いてやる。もう二年の後期だ。司法試験現役合格のプレッシャーは生易しいものではないだろう。スザクの鞄にはいつも法律関連の参考書が入っている。ひとりふたりと友人たちが帰省していくなか、ふたりは去年も今年も一緒に新年を迎える。きっとその先も。帰省しない友人たちから年越しパーティーの誘いがないわけでもないが、適当に断っている。
ざあん、ざあんと打ち寄せる波をぼんやりと眺めていると、スザクが横でもそもそと煙草を取り出して、慣れた手つきで火をつける。
「やめたんじゃなかったのか」
ふんと鼻から息を吐き出して、ルルーシュはスザクの肩に頭を凭れさせる。副流煙が気にならないかと言えばけしてそうではないが、慣れた臭いなので目を瞑る。スザクは、うん、まあ、と、これもまた曖昧な返答を遣して笑う。
ぽしぽしと携帯灰皿に灰を落とすスザクの指を眺めながら、ルルーシュはスザクに掌を差し出す。するとスザクが煙をふはっと吹き出した。
「ルルーシュこそ」
「俺はそもそも始めてない」
屁理屈、と笑いながらスザクが煙草を一本ルルーシュに手渡す。咥えるとスザクが手を添えてそれに火を付けた。深く吸い込むと、きゅう、と毛細血管が収縮して、くらくらする。
「相変らず重いの吸ってるな、」
「僕はこれ一筋です」
ふーっと煙なのか、吐く息のものなのか判別できない白さが闇に溶けた。ふたりの、深く吸い込む音と、吐き出す音が潮騒の狭間に揺れる。ぽしぽしとふたりで交互に携帯灰皿に灰を落としながら、ぼんやりと目の前の蠢く闇を眺める。
「スザク」
ざあん、ざあんと波はただ寄せて返して繰り返す。
「俺は、おまえに会ったときから、なにか、大事なことを忘れてる気がしてる」
出会ってから数年、一度も告げなかったこと。
「――ルルーシュ」
こつりと、スザクが頭を寄せた。
「灰が落ちるよ」
差し出された携帯灰皿に、微かな苛立ちと一緒に煙草を押し付けて揉み消した。スザクもふうっと大きく最後の煙を吐き出してから煙草を揉み消し、更にルルーシュに体重を預けてくる。重い、と言おうと思ったが癪なので全力で受け止めてやる。
「ねえルルーシュ」
スザクがゆるりとルルーシュの手に指を這わせ、絡めた。血管が収縮して余計に寒くなったルルーシュは、素直にそのぬくもりを求める。
「呆れるほど頭のいい君が忘れるくらいなんだから、きっと、忘れてていいことなんだよ」
どこか言い含めるようなその声音に、お前も同じことを感じていたのかと問いたくなったが、やめた。絶え間なく寄せる波に思考がほどけていく。
「じゃあきっと、一生知らないままだな」
ルルーシュもスザクに負けじと体重を預け返して呟くと、スザクが軽く笑った。
「君が、『知らない』ことなんて赦せるの、」
「……知れば知るほど、知らないことが増えていくんだ」
「哲学。無知の知ってやつ?」
「よく知りもしない言葉を使うな」
「厳しいな。それじゃあ僕は君とろくに喋れなくなっちゃうよ」
「普段ろくに喋らないくせによく言う」
ぎゅっと絡まる指に力がこもる。スザクの吐息が近づいて来る気配がして、一瞬躊躇うが、目を瞑って自らも求めた。乾いた唇が重なる。少しだけ優しく触れて、離れて、また少し重ねる。お互いに指も唇もいいかげんに冷たかった。
「寒いね。帰ろ?」
こつりと額を合わせて至近距離でスザクが囁く。本当に自分勝手なやつだと胸中でごちながらルルーシュは素直に頷く。大学でのスザクの愛想のよさは呆れるほどなので、むしろこれくらいでちょうどいいかと思ってしまう自分も大概甘いなと思う。
立ち上がり砂をはたいて、ルルーシュは闇の中に砕ける波の白さを少し目に焼き付けた。スザクに促されて、さくさくとまた頼りない砂を踏みしめて来た道を戻る。
「スザク、これからは昼間に来よう」
足元に視線を固定したまま声を落とすと、スザクがルルーシュの手を握った。
「俺は、青い方が好きだ」
幾度となく昼夜を問わず一緒に海に来たけれど、それを告げるのは初めてだった。ちゅ、と素早く頬にくちづけられて、ぱちりとルルーシュは瞬く。視線を転じると、ほのかに街燈に照らされたスザクは今にも泣きそうに微笑んでいて、ルルーシュは言葉を失った。
「ありがとう」
一体なにに対して礼を言われたのかわからないまま、ただルルーシュは微笑んだ。
ざあん、ざあん、と潮騒が心を掻き混ぜる。
「ねえ、これからもずっと、一緒に年を越そうね。できるかぎり、ずっと」
自転車の前で立ち止まり、スザクが淡々とそんな願いを口にするので、ルルーシュは少しだけ困って、溜め息の代わりに、スザクの冷たい頬にくちづけた。
ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。
(ウィルヘルム・アレント 「わすれなぐさ」 上田敏訳 『海潮音』所収 新潮文庫)
生まれ変わりで大学生スザルルでした。
スザクは法学部、ルルは文学部で哲学専攻志望という脳内設定。
書きだしたらこの設定でいろいろとエピソードが浮かんできましたが、また機会があれば別のおはなしで書こうと思います。
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