初恋は幼稚園の先生だった。
中学で初めて彼女と呼べる相手ができて、それからは何だかんだでそういう相手が途切れることはなかった。
しかも全部向こうから告白されて、それを受け入れるばっかりだったせいで、よく考えたら未だに自分から告白ということをしたことがない。
幼い頃の夢を諦めきれず、その道に進もうと決めてからは一心不乱に勉強ばかりしていたからか、もう何年と恋人もいない。特に必要もなかったから考えるまでそのことに気付きもしなかったけど。
自分から人を好きになったのは幼稚園のときが最初で最後だ。過去付き合ってきた人ともそれほど長続きした覚えがない。
きっと自分は恋愛に向いていないんだろうと思っていた。恋人がいないことに不便さを感じたこともなかったんだから、これから先も当分は必要ないと思っていたのに。
今、僕は初恋を済ませておいてよかったなんて考えてる。
だって初恋は実らない。
この恋が実らないなんて、想像するだけで耐えられそうにないんだ。
ふゆのこいびと-3-
「今日は夕方からアルバイトなんだろう?遅くなるのか?」
ゆず茶の入った湯飲みを抱えながら、ルルーシュが時計を見上げた。
「そうだね、年内最後の営業日だからちょっと混むかも。先に寝てていいよ」
スザクの言葉に分かったと頷き、ルルーシュは頑張れよと微笑む。その笑顔さえあれば何だって頑張れそうだとスザクはだらしなく頬を緩めた。
「今年も大晦日に初詣行く?」
「そうだな、お前が寒さに耐えられるなら」
悪戯っぽく細められた紫紺に、スザクは苦笑する。寒さに弱いのは確かだからだ。この土地の冬も2度目だというのに、スザクが慣れたのは雪かきの仕方だけだった。
それでもスザクの一番好きな季節は冬だ。ルルーシュと一緒にいられるならずっと冬でも構わない。
「そういえば、君と一緒に住み始めたのも去年の今くらいの時期だったね」
ルルーシュの手を握れば、すぐに頬に赤みが差す。嫌ではないが恥ずかしいのだとルルーシュが告げてから、スザクはわざと嬉しそうに度々触れてくるようになった。ルルーシュの照れる姿は何度見ても可愛いとスザクが思っていることは内緒だ。
結局ルルーシュはその手を振りほどくことはせずに、懐かしそうに頷いた。
「そうだったな、ちょうどこれくらいの時期だった」
* * * * *
「さぁ、洗いざらい吐いてもらおうか、枢木スザクくん!吐くまで今夜は帰さないから覚悟しとけよ~!」
ばしんばしんとスザクの背中を強く叩きながら、リヴァルは片手のビールジョッキを掲げた。
「ほどほどにしときなさいよ、リヴァル。スザクはあんたと違ってワクなんだから」
「ワクは言いすぎだよ、カレン。僕だって人並みに酔っ払うこともあるよ」
2人の向かいでサラダをつつきながら、カレンは「へぇ?」と面白そうに目を丸める。
「そうそう、そこなのだよ、スザクくん!俺らが聞きたいのはぁ~!」
まだ飲み始めて5分と経たないにも係わらず、すっかり出来上がったのようなリヴァルの様子に苦笑しながらスザクは首を傾げた。
「そこってどこ?というかそもそも何を吐くのさ、リヴァル」
「チッチッチ、水臭いぜ。俺ら友達だろ?」
そう言うリヴァルはニヤニヤと口元を緩めている。スザクが分かっていてはぐらかしているとでも思っているらしい。困ったな、と思いつつカレンに目を向ければ、スザクの意を汲んでくれたのかカレンが肩をすくめた。
「あんたの様子が秋頃からおかしくなったでしょ。で、彼女か好きな人ができたんじゃないかってリヴァルは言ってるのよ」
「様子が?変わった?」
スザクが首を捻りながら自分を指差せば、リヴァルとカレンの2人が揃って頷いた。
「やだ、自分で気付いてなかったの?それって重症よ」
「そう、お前は変わった!授業が終わると飲み会の誘いも断ってさっさと帰るし、やたら花を気にするようになったし、特に雪の日なんかは1日中そわそわしてる始末だ。これが変わったと言わずに何と言う!」
自分の様子が変わったという自覚のなかったスザクは、2人の思い違いだろうと思って聞いていたが、リヴァルの“雪の日は特に”という言葉を聞いて思わず苦笑する。心当たりに思い至ったからだ。
ルルーシュと話をし、彼の正体を知ってからというもの、ルルーシュは3日と置かずスザクの前に姿を現すようになっていた。スザクに気兼ねなく妹であるナナリーに会いに来れるのが嬉しいらしい。そして冬の日には、ルルーシュは必ずやってきた。季節の仕事も忙しいんだと言っていたが、雪の日は比較的することが少ないのだとも言っていた。それを聞いてスザクは初めて冬が長く続くこの町へ越してきてよかったと感じたものだ。
「皆すごい気にしてるわよ。難攻不落の枢木スザクがついに落ちたんじゃないかって」
茶化すようにカレンが笑う。
「難攻不落って…そんな城塞か何かじゃないんだから」
笑いながら3杯目のビールに口をつける。自分がそんな風に思われていたなんて知らなかったなとスザクがぼんやり思っていると、カレンが「呆れた」と呟いた。
「まぁ自分の噂なんて本人が一番気付かないものなのかもね。私は言い得て妙だと思うけど、“難攻不落”。誰にでも――特に女の子には無条件に親切だけど特別な相手は作らないし、かといって好きな人がいるでもない。押しても拒否することはないけど、応えもしない。暖簾に腕押しぬかに釘、ってまさにその通りじゃない。同じ学部以外にも何人被害者がいると思ってるのよ」
唐揚げを口に放り込みながら告げられた言葉に、スザクは苦笑するしかない。
「彼女だな?恋人ができたんだろう?正直に言ってみろ!」
リヴァルのなかでは既にスザクは彼女持ち確定らしい。スザクはそうだといいんだけどね、と首を振った。
「残念ながらまだ恋人じゃないんだ」
女の子でもなければ人間でもないけど、と内心呟いていると目を潤ませたリヴァルが並々とビールをついでくる。
「片思い!片思いなんだな!?分かる、分かるぜその気持ち!!」
大仰なほどの仕草でわっと顔を覆い、先輩~と情けない声で呻き始めた。スザクが顔を上げると、カレンが大きく溜息を吐きながら米神を押さえていた。視線だけでどういうこと?と問いかけると、「玉砕記録更新したのよ」と教えられて納得する。リヴァルが隣の学部の才女に入学以来ずっと思いを寄せていることはスザク達にとって周知の事実だ。
「しかし、諦めてはいけない!諦めたらそこで恋愛終了ですから!」
どこかで聞いたようなセリフだと思いながら溢れそうなビールを胃に流し込む。片思いという響きに妙なくすぐったさを覚えつつ、スザクは思い人の姿を思い浮かべた。あの日見た心からの笑顔は、未だ色褪せることなくしっかりと脳裏に焼きついている。ああいうのを花のような笑顔っていうんだろう。
「で?リヴァルはもう置いておくとして、あんたの好きな人ってどんな子なの?」
カレンが器用に焼き魚の身を分けながら問いかけてきた。スザクはそのタイミングの良さに思わず笑いがこぼれる。
「黒髪の、すごく綺麗な人だよ。可愛い妹と弟がいて、すごく大切に思ってる」
妹である白木蓮を見上げながら、弟には季節の変わり目の数日しか会えないのだと寂しがっていたのを思い出す。ルルーシュは弟妹の話をするとき、こちらまで優しい気持ちになるような笑顔で幸せそうに笑うのだ。その表情はこれ以上ないほど柔らかい。
「へぇ、あんたって面食いだったの?」
「違うよ。確かにその人はすごく綺麗だけど、何ていうのかな、あの人の笑顔が好きなんだ。いつまで話してても楽しいし、でも沈黙だって全然苦じゃない。あの人が喜ぶこと何でもしてあげたいし、笑っててほしいし、できるならずっと一緒にいたい。隣にいられる特別な権利が欲しいんだ」
「…随分なのろけだこと」
呆れたように笑いつつ、カレンが頑張りなさいよと励ましてくれる。リヴァルも横で分かるぞと何度も頷きながら頑張ろうぜ同士よ、と嬉しそうに笑った。
日付が変わったところで解散し、家路を急ぐ。
先日後期のレポート提出のラッシュも無事終わり、明日から本格的に冬季休暇に入る。まだ一回生ということもあって帰省する学生も多く、リヴァルやカレンもそのうちの一人だ。
「うぅ~、寒い」
鼻までマフラーで覆い、肩を小さく丸めるように震わせる。毛糸の間から漏れ出た息が白く染まった。ろくな街灯はなかったが、積もった雪に月の光が反射して辺りは十分に明るい。
その雪を見て、スザクは白と黒、そして紫を見ると無条件でルルーシュを思い出すようになったなぁと笑った。
ルルーシュの告げた秘密は、確かにスザクにとって突拍子もないものだった。精々が幽霊だろうと思っていたのに、冬だという。しかも秋と白木蓮が弟妹で、好きなものは炬燵とみかんの香り。目を瞠るほどの美人なのに、さばさばしていて性格は男らしい。言葉使いはちょっと乱暴だけど優しくて手先が器用。頭もいいのに、イレギュラーな出来事にはとことん弱い。
ルルーシュに関することを次々に思い浮かべながら、スザクはますます頬を緩めた。
スザクが恋に落ちてから―――つまり、ルルーシュにおやすみと言って微笑みかけられてから数週間、スザクがルルーシュのことを考えない日はなかった。彼が来るたび、雪が降るたびに条件反射のように跳ね上がる脈拍を落ち着ける方法をスザクは未だに知らない。
「う~ん、久しぶりにすると勝手がよく分かんないな」
何しろ自発的な恋など幼稚園以来だ。不慣れすぎて、ある日突然自覚した恋はうまくスピードのコントロールもできない。周囲はスザクのことをモテると言うが、モテる人間が二度目の恋にこんなに戸惑ったりするものだろうか。思わず苦笑をこぼしながら、スザクは静かに玄関の扉を引いた。
靴を脱いでいると、不意に照明が点けられる。驚いて顔を上げると、そこにはつい今しがたまで思い描いていた思い人の姿があった。
「ルルーシュ!?」
「おかえり、スザク。遅かったんだな、待ちくたびれたぞ」
微笑みながらルルーシュがスザクの抱えていた鞄を引き取る。
「手洗いとうがいをしてこい。もう食事は取って来たんだろう?熱いお茶でも用意しておいてやる」
上手く反応できないまま、それでもスザクは慌てて靴を脱ぎ揃えると言われた通り洗面所へ駆け込んだ。しかし、その足ですぐさま台所へと引き返すと、茶筒を手にしたルルーシュに向かって叫ぶ。
「ただいま!」
言うやいなや急いで洗面所へ戻って行くスザクの背を、ルルーシュは笑って見送った。
「来てたんだね。遅くなっちゃってごめん」
居間に戻り、腰を下ろしていたルルーシュの隣に座る。昨日来たばかりだから少なくとも今日は来ないだろうと思っていたところだったのだ。スザクは嬉しい誤算に頬を緩める。
「気にするな。俺が勝手に来て勝手に待っていたんだ」
待っていたという言葉にますます気分が高揚するのを感じながら、スザクはルルーシュから渡された湯呑みにゆっくりと口をつけた。
「今日が年内に大学に行く最後の日だったんだよ。だから友達とご飯を食べてきたんだ」
「そうだったのか。てっきりアルバイトかと思っていた。それにしては遅いと思って少し心配していたんだ」
最近はこの辺も昔ほど治安もよくないしな、と言うルルーシュに頷き返しながら、スザクは盛大に表情を崩す。家で自分の帰りを待っていてくれたどころか、帰りが遅いと心配までしてくれていた。しかもお茶までいれてくれて。まるで新婚家庭みたいだ。
「嬉しいな。おかえりって言ってもらうの、こんなに嬉しいことだったんだね」
にこにこと笑いながらありがとうとまで言われ、ルルーシュは首を傾げた。季節の自分にとって、一定の場所に誰かと住むというのは経験したことのない、そして経験し得ないことだ。そういえば、おかえり、ただいまという言葉のやり取りも知識で知っていただけで実際に使ったのは今日が初めてだと気付く。気付いた途端、くすぐったさに似た感覚がじわりと湧き、ルルーシュは無意識に微笑を浮かべていた。
「そんなものなのか?」
「うん。実家にいた頃はそんなこと気付きもしなかった。それに、言ってくれるのがルルーシュだっていうのが余計嬉しい。すごい幸せだよ」
恥ずかしげもなく真っ直ぐに見つめて告げられた言葉に、ルルーシュはどうしたものかと逡巡した後諦めたように首を振った。じわりと頬が熱を持つのを感じながら、それでも悪い気はしない。
「本当にお前は……。まぁいい。そうか、休暇か。それはいいな。俺もしばらくはさほどすることがないんだ」
「じゃあルルーシュもお休みみたいなものなんだね?」
「ああ。もちろん細々とした仕事はあるが、もう本格的に冬だからな、仕事も落ち着くさ」
スザクに季節の仕事がどういったものかは分からなかったが、ルルーシュ曰くそこは説明しても人間には感覚的に理解しにくいところらしい。言葉を探しては説明が難しいなと首を捻っていたルルーシュも可愛かったと見当外れな方向へ頭が行きかけた瞬間、ずい、と近付いてきたルルーシュに来ていたパーカーを掴まれた。
「色々な匂いがついているな…お前の匂いがしない」
「へっ!?あ、ああ、うん、居酒屋にいたからかな。色んな匂いが、ってルルーシュ!」
匂いを確かめるように顔を近付けられ、急にアップになったルルーシュの顔にスザクは思わず腰を引いた。しかしルルーシュもそれを追いかけ、結局距離は変わらない。手をほんの少し上げるだけで抱き締められそうなその近さに、スザクは眩暈を起こしそうだった。
「僕の匂いとか…あんまりすごいこと言わないで」
スザクの言葉の切実な響きにも気付かず、ルルーシュはスザクの胸に顔を埋めるようにしている。
「もったいないな、せっかくお前はいい匂いなのに。よし、休みなのならばあの洗濯というものをするのだろう?俺がしてやる」
ようやく離れたルルーシュに内心安堵の溜息を吐きつつ、スザクはありがとうと返すので精一杯だった。汚れた衣服が綺麗になる洗濯というものが、ルルーシュはお気に入りらしい。元来綺麗好きなのだという。
「うーん、いい匂い?かなぁ?」
「汗をかいているようなときならばまだしも、自分では自分の体臭など分からないだろう。お前はいい匂いがするよ。俺にとっては好ましい」
今の最後のとこだけでも録音しときたかった。スザクは心底残念に思ったが、次の瞬間思いついた考えに目が輝く。
「あっ!ねぇ、ルルーシュ!」
妙にスザクの弾んだ声に、みかんを手にしようとしていたルルーシュが顔を上げる。
「どうした、急にご機嫌だな」
「いいこと考えたんだ。明日からお互い休みなんだったら、ルルーシュ泊まっていけばいいよ!」
みかんをルルーシュに手渡しながら、にこにこと笑みは深くなるばかりだ。口に出せば、ますますいい案のように感じられた。
「泊まる…?」
「そう!本当はずっと考えてたんだ。君がいつもどこに帰ってるのかは知らないけど、僕は見ての通り広い家に一人暮らしだし、君が一緒に住んでくれたら楽しいだろうなぁって」
「一緒に住む…?」
上手く理解できていないのか、ぱちぱちと瞬くルルーシュはスザクの言葉を繰り返すだけだ。けれど、数回繰り返して口にしているうちにやっと表情に変化が起こる。
「一緒に住み…たいだと!?俺と?」
余程予想外だったのだろう、ルルーシュには珍しく声が裏返り気味だ。
「そうだよ、君とだ。どうかな?あ、でも無理強いとかじゃないし、ルルーシュが嫌だったら、」
「嫌じゃない!」
咄嗟にスザクの言葉を遮るようにしてルルーシュは声を上げた。思ったよりも声が大きくなったことが恥ずかしいのか、耳朶が赤みを帯びる。
「嫌、なわけがないだろう…」
その言葉に、スザクは顔を輝かせる。「じゃあ!」と言うと、ルルーシュが困ったように眉を寄せた。
「でも、お前こそ嫌じゃないのか。俺は人間じゃないんだぞ?お前の苦手な冬だ」
ルルーシュの言葉に、スザクはむっと口を尖らせる。
「心外だなぁ、ルルーシュ!君が人間じゃないのなんて今更だし、僕は寒いのが苦手なだけで冬は大好きだよ!冬の朝なんかすごく好きだ。空気が澄んでてぴんとしてる感じが気持ちいいし、冬は寒い分人のあったかさとかいつもより分かるし。それに何より、僕はルルーシュが大好きなんだ!いいに決まってるじゃない!」
真っ直ぐに好意を告げてくるスザクに、ルルーシュは思わず声を詰まらせる。本当に日本人なのかこいつは、と出会ってから何度となく思ったことが再び頭をよぎった。ルルーシュのなかの日本人像とかけ離れている気がするのは気のせいなのだろうか。
「そ、そうか」
「そうだよ!」
ルルーシュに理解してもらえたと伝わったのだろう、スザクは満面の笑顔を浮かべている。ルルーシュはその背にぶんぶんと勢いよく振られる尻尾のようなものを感じたが、あながち気のせいばかりではない気がして思わず苦笑する。
「お前がそう言うなら、春まで世話になってもいい」
「じゃあ決まりだね!」
よろしくねと差し出されたスザクの手に、ルルーシュも笑みながら自分のそれを重ねた。
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